『サウルの息子』:決して逃げられないアウシュヴィッツの狂気

ナチスドイツの収容所には、囚人によって構成される「ゾンダーコマンド」という特殊任務の部隊があった。他の囚人と引き離され、限られた範囲内での行動の自由も許されていた彼らの役目は、移送されてきたユダヤ人たちを安心してガス室に送り込むこと。さらにその後の遺体を処理し、すぐに次のユダヤ人を送り込めるよう、ガス室内の虐殺の痕跡を掃除すること。そして数か月働かされた後には、虐殺の目撃者を口封じするために“処分”される運命が待っている。冒頭、黒い画面に白い文字で、この「ゾンダーコマンド」について触れた後、映画『サウルの息子』は始まる。

舞台はアウシュヴィッツ=ビルケナウの絶滅収容所。その敷地内、ぼんやりと映る緑の中から、幾人かの人影がわらわらと現れる。「始めるぞ」とささやき合った彼らは、何も知らずに移送されてきた人々を建物内へと導く。我々には労働力が必要だ。技術を持つものは、仕事と給料を与えるからシャワーとスープの後に申し出ろ。何も知らない彼らはその言葉を信じ、裸になってガス室の中に入っていく。扉が閉まってほどなく、中からは阿鼻叫喚が響き始める。苦しみの末に扉をたたく無数の音も聞こえる。閉まった扉の外で、サウルはそれをじっと聞いている。やや長めの暗転の後、サウルはガス室の血だまりを、床に張り付きながらゴシゴシと荒い落としている。屍の山を前にして無表情のサウルが、どこかうろたえたように動くのは、その中にまだ生きている少年を見つけた時だ。結局ナチスの医師に息の根を止められてしまった少年を、サウルは「自分の息子だ」と言い出し、人間として弔うために奔走し始める。

© 2015 Laokoon Filmgroup
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サウルは葬儀を行えるユダヤ教のラビを捜して、収容所内を渡り歩く。ガス室に入った者たちの遺品の分類場、それを保管する保管庫、解剖室、遺体を(時に生きた人間を)焼くために放り込む穴、大量の遺灰を捨てる川……それぞれの作業に紛れ込むサウルの背中に張り付いたカメラがとらえるのは、アウシュヴィッツの日常だ。

所内ではゾンダーコマンドによる武装蜂起の準備も密かに進行中なのだが、ラビがいるらしい作業班に近づくことができれば、サウルはその秘密任務も買って出る。だが息子の埋葬に強くこだわるサウルは、時に彼らの計画を危険にさらすことすら厭わない。その行動はどこか狂気じみているのだが、「お前には息子なんていないじゃないか」という仲間の言葉で、それは確信に変わる。だが果たして本当に、サウルこそが狂気なのだろうか。虐殺を告発するための証拠写真を密かに撮る仲間たちに、ゾンダーコマンドの一人が言う。「写真が俺たちの命を救ってくれるのか?」。収容所で死んだ無数の「サウルの息子」の死を悼むよりも、大義こそが優先されるべきだと考える仲間たちも、実のところ、人の死に紙きれほどの敬意も払わない収容所の狂気に飲み込まれている。

© 2015 Laokoon Filmgroup
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 数年前、アウシュヴィッツを訪れた時に見たものの中で最も衝撃的だったのは、囚人たちの山のような遺髪だ。ナチスは囚人たちの持ち物をそれごとに分類し、山のように保存していた。合理性と几帳面さはドイツ人の美徳に違いないが、絶滅収容所とゾンダーコマンドはその裏面として生まれた悪魔的な鬼子だ。多くのナチス親衛隊が各村々でのユダヤ人虐殺でPTSDに陥ってしまい、彼らの苦痛を肩代わりさせ「作業効率を上げるため」に、それらが誕生したのである。この事実が我々に教えるのは、「直接的な残虐行為が人間の精神を蝕むこと」であると同時に、「他人事であれば人間はどこまでも残虐になれること」でもある。

収容所を舞台にした既存の映画が、いかにも悲しい音楽をBGMに、いかにも憎々しいナチス親衛隊によるいかにも残虐な行為や、いかにもヒーロー然とした主人公が生き延びる姿を描いてきたが、そうしたドラマ性は現実との距離感によって映画を「他人事」にする安全装置のようなものだ。『サウルの息子』はそうした描写を一切排除し、観客を淡々と冷えきった収容所の生活へと引きずり込む。ほぼ全編、サウルの背中に張り付いたカメラは、収容所内の「いかにも」な残虐行為においては、そのわずかな断片か、遠くににじむ景色としてしか描写しない。だがゾンダーコマンドとして強制される行為への距離の近さは、観客が個人の生々しい感覚としての戦争をとらえて余りある。そして画面には常に、サウルの背中に描かれた赤い×印が映し出されている。ゾンダーコマンドが逃げた時にはこれが標的となる。決して逃げられないと映画は教える。      text:shiho atsumi

サウルの息子
監督・脚本:ネメシュ・ラースロー/共同脚本:クララ・ロワイエ/主演:ルーリグ・ゲーザ 
2015年/ハンガリー/カラー/107 分/スタンダード 
1月23日(土)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー
配給:ファインフィルムズ
© 2015 Laokoon Filmgroup